vol.36秋号
田村志津枝さん【小諸市】

小諸に滞在した『若山 牧水』のゆかりをたどる

田村志津枝さんは、ノンフィクション作家であり、記録映画制作や台湾映画を日本に紹介するなど多彩な活動をしてきた方です。2009年1月、小諸・懐古園近くにホクシンハウスの無暖房住宅を建て、現在では首都圏から小諸に拠点を移して活躍されています。数多い著書のなかから、『若山牧水さびしかなし』を中心にお話を伺いました。

家族のなかで話し伝えてきた人間臭い牧水の姿

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白鳥はかなしからずや空の青
海のあをにも染まずただよふ

白玉の歯にしみとほる秋の夜の
酒はしづかに飲むべかりけり
こうした叙情あふれる歌を詠んだ若山牧水は、明治・大正期の代表的な歌人のひとりです。田村志津枝さんの実家は、北国街道・小諸宿の本陣、祖父はそこを買い取って任命堂田村病院の院長をしていました。明治43(1910)年秋、ここに転がり込んだのが25歳の若き若山牧水。「白玉の」の歌は、本陣2階の自室で詠んだものです。田村さんは、子供のころから、家族や周りの人に牧水の話をよく聞かされてきました。子ども心に「酔っ払って、ヘマばかりする人」というイメージができ、「酒と旅を愛し、恋に生きた漂泊の歌人」という一般的な牧水像とは違うものでした。カッコ悪いところもある人間臭い人物像を身近に感じていました。お父様が生まれた年に3カ月ほど田村家で過ごした牧水。田村さんは、お父様が亡くなったとき、牧水の伝説もこのまま消えてしまうと思い、本にまとめることを思い立ったそうです。「いったい、小諸の田舎に新進気鋭の歌人が何をしに来たのだろう」という素朴な疑問もありました。聞かされてきたエピソードをもとに、ゆかりの人々を全国に訪ね歩いて聞き書きを重ね、資料を丹念に発掘して、平成15(2003)年に上梓したのが「若山牧水さびしかなし」(晶文社)です。同書のなかで、田村さんは「年若く貧しかった牧水が、心身ともにくたびれ果てて身を寄せたのが、私の祖父の屋敷のなかの一室だった。その偶然の出来事が、90年あまりののち、私に物語をたどりなおす喜びをもたらしてくれた」と記しています
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牧水を温かくもてなした小諸の人々

牧水が頼ってきたのは、田村家の医学書生の岩崎樫郎という人で、短歌の添削をしたのが縁とされています。当時、手ひどい失恋をし、体調も崩していた牧水は医療が受けられるのを期待してきたのではないかと田村さんは推測します。とはいっても、おとなしく療養していたわけではなく、聞かされてきたのは、酒を飲んで騒いだり、階段から転げ落ちたりする姿だそうです。院長は牧水が居候していることを知らず、短歌の投稿など大量の文書が届くので初めて牧水に気づいたといいます。田村病院の使用人たちは、そんな牧水を温かく迎え、なんの不自由もさせないように過ごさせていました。当時の田舎には珍しい立派な手術室があり、その静かで無機的な美しさを牧水は好んで、衛生上禁止されているのに、こっそり入ってはよく本を読んでいたというエピソードもあります。貧しい居候とはいえ、名の知れた歌人ですから、地元の趣味人に招かれて短歌の添削をしたり、歌会や宴会に呼ばれたり。店で飲んでも温泉宿に逗留しても、支払いがわりに、サラサラと歌をしたためて置いてくることもあったようです。
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本陣裏手から現在の田村さんのお宅の裏手に続く細い道は、長く「牧水の道」と呼ばれてきました。表通りを避けて、牧水が千曲川へと通っていた道だそうです。当時、地元の青年たちは「白閃集」という同人誌を作っていました。自作の歌を書きつけては順番に次に回していったもので、合評会を開いたり、牧水の添削を受けたりしていました。よいものは牧水が主宰する全国誌「創作」に載せることもあったそうです。「手書きの同人誌からは、青年たちの文芸への熱意が伝わってきます。普段は土にまみれて働きながら、歌作を楽しみ、牧水との出会いをとても大事にした。昔の暮らしぶりが偲ばれます」夏の終わりに浴衣一枚で田村家に来た牧水は、冬になって、世話になった岩崎さんの袷の着物(父親の形見でもある)を着たまま、突然去ってしまいます。そうした無頓着で身勝手な面を含め、田村さんはノンフィクショ作家として牧水のありのままの姿を記しています。「牧水は信州の歌人から見れば、生活者としての厳しさには欠けていたかも知れない。けれど、あの美しい歌の数々は皆の心を強く打ったと思います」
「これからは、小諸と牧水のつながりについて、もっと地元の方々にも知ってほしいと考えています」
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台湾のニューシネマを日本に初めて紹介

田村さんは昭和19(1944)年に台湾・台南市で生まれました。当時お父様は台南陸軍病院の軍医でした。1歳からは小諸の本陣で育ち、早稲田大学に進学。卒業後は記録映画の制作に打ち込みます。1970年代にドイツ映画を日本に紹介したのち、ロンドンの映画祭で台湾映画に注目。昭和58(1983)年に「ぴあ」主催の映画祭で台湾映画を初めて日本に紹介しました。当時は題材にしにくかった台湾の近現代史を扱うなど、新しい時代を感じさせる台湾ニューシネマの幕開けでした。その代表的存在が、侯孝賢(ホウ・シャオシェン)監督。田村さんは台湾映画の紹介だけではなく、字幕翻訳も多数手がけ、侯監督の代表作「悲情城市」の字幕も担当しました。同映画は高く評価され、1989年ヴェネチア映画祭グランプリを受賞しています。国民党政府が台湾人の抗議行動を弾圧した二・二八事件が盛り込まれており「当時タブーだったことが表現できるようになったという躍動感があり、反面、台湾の重い歴史が静かに語られています」と田村さんは話します。これをきっかけに、1992(平成4)年には、田村さんは「悲情城市の人びと―台湾と日本のうた」(晶文社)を出版。日本による50年間の植民地支配、その後の中国大陸から来た国民党政府による支配。外来者による過酷な統治を生き延びてきた台湾の人々の複雑な心の内を、台湾社会で歌い継がれてきた歌を通して描き出しています。
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長野で台湾映画のトークイベント

今年6月、長野市の映画館「長野相生座ロキシー」で、侯孝賢監督の作品「冬冬(トントン)の夏休み」「恋恋風塵(れんれんふうじん)」が上映されました。上映後のトークイベントでは、田村さんが映画の時代背景や映画に出てくる多彩な言語などについて話しました。「台湾は、文化も言語も地理的条件も多様性に富み魅力的です。これからの台湾映画にも期待しています」
小諸を拠点にする田村さん。「暖かい住まい」を求めて、ホクシンハウスにたどりついたというお話も伺いました。真冬の真夜中でも寒さを感じず書斎に足を運べるとか。今後もみずみずしい発想力で仕事を続けていただきたいと思います。
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