Vol.22春号
飯田 治夫さん【飯綱町】

ペルー、上海、シアトル 異国の地で日本人教育に尽くした日々

ホクシンハウスで建てた暖かい家に、100歳のお母様を見守りながら暮らす飯田さん夫妻をご紹介します。飯田治夫さんは、神奈川県の公立学校で英語を教え、校長や教育委員会の要職を務めた方。かたわら、リマ(ペルー)、上海(中国)、シアトル(米国)の日本人学校・補習校で在外邦人の教育に尽くしてきました。40年の学校教育現場での蓄積と異文化体験から得た広い視野がうかがわれます。

子供は本能的に親を喜ばせようとしている

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親と呼ばれる人なら、誰もが子育ての難しさを感じているのではないでしょうか。そう問いかけると、飯田さんは「子供は親が大好きです。本能的に親を喜ばせよう、喜ばせようとしているんですよ」。
この言葉に励まされる思いがしました。さらに続けて「ところが、親のほうでは、子供にああしなさい、こうしなさいと、もっともっとと要求する。それは子供を思う親心からですが、子供にとってはできないことばかり数えあげられて、自己肯定感が持てなくなってしまう。ないものを要求するのではなくて、今できていること、有るものを数えるようにしたいものです」
誉めて育てるということでしょうか? 思春期の子供を誉めまくったら、馬鹿にするなと言われたことがあるんですけど。
「ただ誉めるのが通じるのは小学4年生く
らいまで。頑張らせようとする下心を持って誉めても見抜かれます。あるもの、いいところを見つけて素直に喜んであげてください。子供は親を喜ばせたいのですから、親が喜んでくれたら、自分はこれでいいんだと自信が持てます」
なるほど。「誉める」と「喜ぶ」の違いに目からウロコです。もっと子育てについて、飯田さんのお話を聞かせていただきたくなりました。

自動小銃に守られて初めての南米ペルーへ

1985年春、飯田さんは奥様と2人の幼い子供を伴って、ペルーのリマ日本人学校に3年任期で赴任します。中学校で生活指導担当教員を務めながら、やはり学級担任に戻りたいという思いと、世界を見たいという思いから、文部科学省による日本人学校への教員派遣に応募したのです。もちろん、派遣先を選ぶことはできません。
当時のペルーはテロの危険があり、夜間外出禁止令が出されていました。飯田さん一家が空港からリマ市内に入るバスは、自動小銃を構えた護衛に守られていました。
貧富の差が激しく、ストリートチルドレンや子供の物乞いなど珍しくありません。格差社会のなかで日本人はアッパークラスとみなされ、家にはメイドを置くことになります。飯田家に住み込んだのは、山村から出て来た27歳の女性。性格のいい人だったので、本人の希望を入れて夜間中学に通わせました。
「彼女は少しでも教育があると、いい仕事につけると言って熱心に勉強していました。貧しくて小学校へもろくに通えない子も多く、また小学1年生にも落第があります。日本とは全く違う社会でした」(飯田さん)
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奥様の和代さんは「階層社会に慣れていないので、どうしてもメイドを対等に扱おうとしてしまいます。それで、日本人のもとで働いたメイドはあとで使い物にならない、それでは当人のためにならないから甘やかさないでくれと忠告されたこともあります。しかし現地の家庭ではメイドに小学生の子供にまで靴下をはかせたりさせるので、それは子供のためにならないので、やめてもらいました」と話します。
日本人学校の子供たちは、大企業の駐在員や公務員の子弟で、比較的資質の高い子供が多かったそうです。日本人学校の役割は、数年後に子供たちが帰国した時にスムーズに内地の学校教育に適応できることにあり、飯田さんもそれを目指しました。

児童生徒の激増期に上海日本人学校の校長として

飯田さんが再び、外地に赴いたのは2002年。今度は上海日本人学校の校長としてです。当時、小・中学生900人が在籍し、日本人学校のなかでもバンコクに次ぐ第二の大規模校。中国経済の急成長とともに日本企業の進出も著しく、児童生徒は毎年数百人も増え、第2校舎の建設に加えて第2キャンパスの用地確保と設計、教員確保に飯田さんは奔走します。その結果、現在では上海新都心と呼ばれる浦東(プートン)に広い用地を確保し新校舎を建設。現在では日本人学校としては初めての高等部が併設されていて、3千数百名規模の世界最大の日本人学校となっています。
当時、首都圏の企業だけでなく、地方の企業も上海に進出するようになっていました。
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日本人学校卒業後に日本に帰国して高校に進学する生徒も増えたため、その受け入れがスムーズになるよう、飯田さんは2~3週間掛けて日本国内を飛び回るようにもなりました。
一方、中国語修得にメリットを感じる親も現れ始め、子供を英語や中国語が身につくインターナショナルスクールに通わせようとするケースもこのころから現れますが飯田さんは「人間の成長過程は言語の獲得過程です。そして外国語は母国語以上に身に付きません。日本語を母語とする人が外国語に堪能になるには日本語をきちんと学び、鍛える必要があります。海外で子育てする親は英語や中国語を学ばせる事に熱心で日本語をおろそかにして、結局言葉も文化も虻蜂取らずの無国籍な大人になって悩む事になります」と日本語学習の重要性を強調されています。

銃社会の米国シアトルでロックダウン(建物封鎖)の訓練も

定年後の2008年には、日本語補習学校の学校長としてシアトルに赴きました。英語圏の特徴として子供たちは現地校に学び週末だけ補習校にやってきます。数年後には帰国する駐在員子弟だけではなく、現地人と結婚し永住する日本人を親に持つ幼・小・中・高生が半数近くいました。米国内の日本語補習校には、ほとんど日本語がわからない子供を入学させる所も多々ありますが、飯田さんは編入学試験を実施して日本語が不十分な子供は再挑戦させたりして学習レベルの維持に努めました。
「子ども達にとって現地校に加え土曜日丸一日を日本語補習校で学習するのは大きな負担ですが、そこを続けるように親子を支え、教育水準を維持しました。その結果、
現地の邦人社会では補習校が一つのステータスを持つようになり、児童生徒が増加して現在は650名を越えています」
ところで米国は銃社会。銃を持つ不審者が現れると、校舎と教室を封鎖して中にこもるロックダウンを行って子供達の安全を守ります。飯田さんも赴任2年目からロックダウンの訓練を年2回導入。幸い実際には経験することはありませんでしたが、近隣ではロックダウンが行われていました。
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百寿の母を見守りながら郷里に暮らす

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帰国後、自宅のある厚木に暮らしましたが、飯綱町への帰郷を決意。95歳まで一人で先祖伝来の家を守ってきたのが、母の瑞枝さんです。明治45年生まれの100歳で長崎県出身。名古屋でご主人と出会い結婚後にご主人の実家に疎開してきました。一方、奥様の和代さんは神奈川県藤沢市の出身。この二人に暖かい家をと飯田さんが選んだのがホクシンハウスです。
「本当にいい家で、ありがたいです。95歳のおばあちゃんは新しい家に馴染めるのか心配でしたが、元の家と間取りをほとんど変えなかったのがよかったのでしょう。温かい家で元気に過ごしてくれています。昨年はおばあちゃんの百歳のお祝いができました」(和代さん)
瑞枝さんを見守りながら、飯田さんは小林一茶の研究に、和代さんは陶芸に打ち込む毎日。3人で穏やかなシニアライフを過ごしています。
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