Vol.2春号
田中新司さんご一家【中野市】

きのこ栽培機器のパイオニア 親子3代、心をひとつに事業展開

錦鯉が泳ぐ池に枝振りのよい松が姿を映し、庭の風格を増すように建つ和風住宅ー
これが田中新司さんご一家のお宅です。田中さんは昭和37年に田中技研工業株式会社を創業し、キノコ栽培機器のパイオニアとして、長年長野県のキノコ生産を支えてきました。2代目社長の田中芳文さんが製造部門を設立して、いまや国内の大手きのこ会社だけでなく。海外各地へもその製品を提供しています。3代目の健(たけし)さんも加わり、キノコ生産機器の開発・設計・製造・販売を一貫して行っています。ホクシンの家にお住まいの企業家ご一家に、そのストーリーをうかがいました。

一度に1本から16本へ きのこ培地瓶詰め機がヒット

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「まさか、機械メーカーになろうとは思っていなかった」と、今年81歳の田中新司さんは言います。
北信濃では明治期後半から養蚕が盛んでしたが、昭和初期に生糸が大暴落。次にりんご生産が始まりましたが、腐乱病が流行して打撃を受けました。そこで昭和30年ごろから、安定した商品作物として中野一帯の農家が注目したのがキノコ、とくにエノキタケの栽培です。
 農家に生まれた田中さんも、農業を営み、エノキの栽培を始めていました。ただ、周辺の一般農家とスケールが違いました。ちょうど共撰所払い下げの土地建物を購入することができたので、当初から栽培瓶13万本でスタート。一般的な生産者が5000本からせいぜい1万本の時代です。全てが手作業ですから、近隣の人手をかき集めても、まだ人手が足りません。あまりの大変さに何とか機械化できないかと考えたのが、事業化への発端となりました。
 最初に考えたのが瓶のふたとなる紙栓を形作る紙栓プレス。次に考案したのが、培地の瓶詰め機で、キノコ培地として養分を含ませたオガクズを瓶に詰める機械です。機械そのものは従来もありましたが、それは1本づつ詰めるものでした。コンテナ1枚に16本の瓶が並びますが、これを一度に詰められるようにしたのが田中さんの工夫。特許も取得しました。
 農機具販売店に販売を勧められ、昭和48年3月、試作機たった1台で発表会を行ったら、その場で15~16台の注文が入ってびっくり。1年に50台も売れればよいと思っていたところが、半年後には県下一円からの注文は100台を越えていました。
 販売100台達成記念に、顧客を招待して行ったのが旅館に一泊しての研修会です。こうした場合、仲のよいもの同士を同室にしたくなりますが、新司さんはあえて到着順に部屋割をします。翌朝、顧客からは「いや、昨日は見知らぬ者同士、一晩中議論し、新しい情報を得られてよかった。ぜひ、毎年この研修会をやってください」
 研修は体験発表だけではなく、著名な講師を呼ぶようになり、12年間続きました。まだ、エノキの栽培技術が標準化されておらず、価格設定も高く、生産者はきのこ栽培に燃えていました。あちこちにきのこ御殿が建った時代です。

俺はまだ40代だから 歯を食いしばってがんばる

順風満帆に事業が立ち上がったようですが、新司さんがキノコ栽培を始めた当初は本当に苦しかったと言います。そもそも栽培技術が確立されていない上に、生産量が断トツに多い新司さんのキノコは品質が安定せず、地元農協が引き取らないため遠方の市場へ出荷せざるを得ないこともありました。栽培技術については暗中模索の上に、日中の人手を帰したあと、夜遅くまで家族総出で作業をする忙しさ。エノキのほかに先祖伝来の1丁5反歩の田畑もあります。働いても働いても間に合わず、それでいて毎年200万円もの赤字を出していました。
 その様子を見かねて、お母様は、そんな苦労をしなくても土地を売って借金を返せばよいと新司さんを諭したほどです。
 「土地は売ればもう帰ってこない。俺はまだ40代だから、歯を食いしばってがんばる」
このぎりぎりの苦しみのなかから知恵を絞って生まれたのが、キノコ栽培機器です。「自分が生産農家でなかったら、機械は作れなかった」と、創業社長・新司さんは述懐します。
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2代目社長が製造部門を開設 市場は世界へ

栽培機器の販売が軌道に乗り、「田中きのこ苑」という名称を「田中技研」に改称。それまで開発・設計だけで、製造は外注していましたが、長男の芳文さんが製造部門として現在の工場を建設。同時に、芳文さんは瓶詰め機の営業に全国を飛び回り、販路は北海道から九州にまで全国に広がります。
 さらにキノコの栽培技術は進み、エノキでは当初1瓶100グラム程度の栽培だったものが、今では250グラムも収穫できるようになっています。同時に、栽培の大型化が進み、生産は企業に集約されていきました。企業や工場によって機械の仕様の細部が異なり、部品等から設計・製造するようになったのも、芳文さんの代からです。機器の種類も約12に増えています。台湾、韓国などからの受注もあり、現在は日本の大手企業の工場進出に伴い、北米へ輸出する大規模生産ラインの製造に追われています。
 「中国のきのこ生産量は年間1200万トン、日本は40万トンです。これからは中国が巨大な販路ですが、同時に価格競争やコピー製品の脅威にもさらされます。老舗として技術には自信がありますが、これからが正念場」と、現社長の芳文さんは気を引き締めています。
 芳文さんの3人の子息のうち、長男・健さんは社長の右腕として田中技研で活躍。次男・敏(さとし)さんは、田中家の別会社でトマトの水耕栽培(年間250トン生産)を担当しています。週に一度は、家族・親族がこのお宅に集まり、賑やかに食事をするという田中さん一族。いまどき珍しいほど仲がよいファミリーですが、一方で、「会社を同族で固めてしまっては、企業は伸びません。従業員からも経営幹部を選んでいくつもりです」と芳文社長は語っています。

FBボードで鯉の池を断熱・保温

田中家の庭は、古刹・命徳寺の銅版葺きの伽藍を借景に築かれています。30年ほど前、高社山の頂上近くにあった松を新司さんが見初めたのが、庭作りの始まりです。気に入った木を探し集め、その位置も何度も植え替えたり、ときには抜き去ることも。7度もの改修を加えて、新司さんいわく、今は「ほぼ完成といえる状態」。その試行錯誤の過程を「庭は私の生きざまそのもの」と振り返ります。
自宅を建て替える際に、ホクシンハウスに決めたのも、担当者の「この庭にふさわしい家を建てましょう」という言葉から。広い家の各部屋から、庭がそれぞれの角度で美しく見えるように計算されています。
80匹ほどの錦鯉が泳ぐ池には地下水を利用していますが、厳寒期には水温が下がるので灯油を焚いて加温していました。おりしも灯油は急騰。環境にも配慮したい。そこで、新司さんはこの冬、50ミリ厚のFBボードを池にびっしりと20枚、浮かべてみました。ホクシンハウスで断熱材に使用しているもので、その断熱性能は肌で感じています。地下水は年間を通じて水温12~13度、断熱さえすれば鯉は適温で越冬できるはず。その発想どおり、なんとこの冬は灯油をまったく焚かずに過ごすことができました。もちろんFBボードは毎年、再利用できます。
きのこ栽培から栽培機器の開発に至った創業社長は、今も工夫すること、試行錯誤することに意気盛んです。
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